2015年2月22日日曜日

どちらも同じ「自由」

世の中で特別なことを成し遂げた人を見て、

あれは例外だ、特別だとスタートラインに立たないのも自由。

誰も責めたりはしない。

スタートラインに立ち自分もそこへ行けるかもと夢を見ることも自由。

誰にもその希望を奪うことなんてできない。

2015年2月15日日曜日

何かを失いたくない時

失うのが嫌だから一所懸命になる。

一所懸命やらないで失ったなら、するのは後悔じゃなくて反省だ。

そうでないとまた同じことを繰り返す。

一所懸命やって失ったなら一方だけではどうにもできなかったことだと、

学んだことを栄養にして前に進む。 

その時一所懸命だったなら、失っても無駄なことはひとつもない。

2015年2月6日金曜日

「ムリ」は心が冷たくさみしく悲しくなるよ。

冗談まじりに「ムリー!」「ムリムリー!」という言葉をよく耳にする。

この言葉が本当に嫌いで、でもそんなことにいちいち目くじらを立てていたら、ヒステリックババアと皆に眉をひそめられるに違いない。そのくらい、世の中はこの言葉が蔓延している。

心を壊すマイナスの言葉を発したら、「言葉に引っ張られるよ」と昨年、大切な人に話してから、その人が自分で発したマイナスの言葉にかぶせるように「・・・なことはない」というような、うっかり口から出たマイナス発言を否定する言葉を付け加えるようになりました。これには感動しました。自分よりも年上の人だし、年下の私が言うそれを真剣に受け止めて実践してくれているなんて、それを見た時に、偉そうに言った私自身ができていないから、なんだかとてもはずかしいと思ったし、自分を省みるきっかけにもなりました。

そんなやりとりをしながら、だんだんと親しくなり、冗談を言ったり、ふざけたりすることも増えてきた中で、私の強引な誘いにふざけて「無理!」と言う返事。それまで楽しくふざけて話していたのに、突然心がさみしくて悲しい気持ちになった。当然相手は深い意味もないし、悪ノリしている私に面白く返しているだけで、よく聞くやりとり。もちろんその場は私も笑って終わる。

そんなことが数回続いた時、ついにたまらず告白する。「無理っていう言葉が嫌いなんよ、本当に嫌なんよ。じゃけぇ、言い方変えて」そんな、水を差すような発言に、相手がどう返したか、今となっては覚えていないのだけど、それからその人は「無理」を言わなくなった。ふざけて、「んーーーどうしよっかなーーーー、んーーーーそうしたいけどーーーー」と面白く返してくれる。思わず笑ってしまったけれど、表現できないくらい嬉しかったし、「無理」という言葉で自分の胸が冷たくなったり、さみしくなったり、悲しくなったりすることまで伝えはしなかったけど、その言葉が嫌だということを真剣に伝えることができたのは、はじめてかもしれない。

そう思えば、今まで、何かしようとした時、いつもこう言われてきた。「前例が無いから無理」「どうせできるわけない」「どうせ無理」「無理なことして誰が責任とるん」でも、どれも私には全くプレッシャーにもならないし、ブレーキにもならなかった。それはそう言っている人がチャレンジしたことが無い人だから。だから全く私の心には届いてこなかった。本当に私のことを心配してくれている人は、「無理じゃない?」「本当にできるの?」という言葉をかけてくれる。言葉は似ていても全然違う。

何かとっても傲慢だけれど、無理じゃないということを知ってもらいたいという、ただそれだけでこの数年何かをやってきた気がする。私があれやこれやと手を出しているように見える、それら全てに共通していることは、この「無理じゃないことを証明したい。だって、私ができるんだから。だから、誰だってできるでしょ?私よりも頭のいいあなたなら、私のような個人ではなく、素晴らしいメンバーのいる組織なら、もっと易しく、大きく結果を出せるでしょ?」そんなひとりよがりな想いを表現することが私の今までの生き方だったような気がする。

目立ちたいわけでも、稼ぎたいわけでも、すごいと言われたいわけでもない。ただそれだけ。今日、この私の性格の根本とここ10年くらいの活動について、はじめて共通している自分の信念のようなものに気づくことができた。若い頃から、人をみて、「もっとできるのになんでやらないんだろう、私より絶対にいい結果が出せる人なのに、できたらいいと思うけどできないって、どうして言うんだろう」そう思っていた。勝手に私がその人ならできると思い込んでいるだけだと怒られるかもしれないけれど、絶対にできるっていう思い込み、したほうが絶対楽しい。

随分と傲慢で押しつけの価値観だけど、それが傲慢だと分かっているから人にやれと言わずに自分でやってきた。それが私なりの押しつけないで表現するという手段。まぁ、、、もちろん、たくさんの人を巻き込んだり迷惑もかけてきたことは、、、、、、。ごめんなさい(笑)

今日そんな自分のチャレンジしてきたことに1本の串がスッと通ったことを、自分の言葉で発して相手に伝えるということの大切さを教えてくれた「無理」というのをやめてくれたその人と、私が自分自身でも理由が分からなかった原動力に気づかせてくれた植松さんの動画にありがとうと伝えたくてブログを書きました。

今日、とても大切な事に気づいたことで、次のステップに進むことができます。

大切な人へありがとう。
植松さん、ありがとうございました。




2015年2月1日日曜日

日々、戦うように生きるあなたに伝えたい二つの言葉

⚫️やめるのも勇気という言葉

自分を正当化するための言葉ではなく、その行動の意味をどう捉えるかは自分以外の人で、それを勇気ある決断だと捉えられる理解者、決断した人の考えや価値観に賛同する共鳴者はさらに近い存在、互いに慕い、敬う存在になる。

その判断や決断の繰り返しでつくられる人間関係だけあれば十分すぎる。

自分を裏切らずに判断して、決断することは自分を表現するという側面も持ち合わせていて、何度も訪れるそんな場面で、しがらみや体裁だけにとらわれることなく、常に自身の生き方・考え方を大切にすることができれば自分を押し込めずに生きていく環境が自然とできてくるのかな。

⚫️継続は力なりという言葉

先に言った”やめる勇気”と反対にあるように思えるが、この二つは同じ方向を向いているように思う。

例えばこれが個人ではなく、組織のトップであったり、複数の人と協同で何かをしようとした時、先ほどの”やめる勇気”はさらにハードルがあがる。

ある程度の周囲との調和、人との関わりで学ぶ我慢や考え方のズレに対する苛立ち、それらを経てバランスをとりながら継続し、悩みや困難を分かち合い完成させたり、結果を出していくということは1人では味わえない感動であったり、日頃忘れがちな、人への感謝の気持ちだったり、様々なことを得ることができる。それらは人生で必ず大きな意味があって、経験や自信が根を張るように自分の土台を築いていく。

もし、結果は失敗とされるプロジェクトであったとしても、中にいる人間は、前を向いていたという前提ではあるけれど、確実に知識や技術、経験値といった形でひとりひとりが成長している。

そんな中でも、どうしても自身の信念をねじまげたり、志していたこととは違ってしまい、逆の方向へ進んだり、精神を病むような出来事が起きたり、大切な人に対して犠牲をはらわなければいけない局面があったりした時に、続けるべきなのか、やめるべきなのか、自身を押し殺し、ただ時が過ぎるのを待つのか、選択をしなければならなくなった時。

それが、先に書いた やめる勇気 につながり、それを知らなければ守るべきものが守れない。誇りだったり、大切な人であったり、残したい文化だったり、思い描く夢だったり。

頭をよぎるのは、最初にあんなことを言っちゃったしとか、人を巻き込んでしまったしとか、責任があるしとか、今更言えないしとか、いろんなことが頭をかけめぐり、疲れてしまい、とても正しい判断なんてできるような状態ではなくなる。

ゴールを決めてスタートすることはあっても、やめるつもりで物事にとりかかったり、スタートさせる人はいない 。やめる時は何かの理由があってやめる。

乗り越えて継続することと、自分自身を押し殺して時間が過ぎるのを待つこととは表面的には同じ継続でも、後者の場合は失うものが大きすぎることも勘案しなくてはならないし、それらを失ってまで継続すべき事なのかをしっかりと見て、必要であるなら、やめる勇気を持つ。

何かを始めるとき"継続は力なり"の言葉の横に、この"やめる勇気"も持ち、自分自身をつぶしてしまわないように時折、進んでいる方向を確認してみる。

そうやって生きていればずっと夢を見続けながら、生きることを日々楽しみ続けることができるかもしれない。この言葉を借りれば「自分自身を生きること」それを継続することが力になるとも言える。

日々、時間が早く過ぎ去ればいいなんて生き方はしたくないし、少なくとも家族や大切な人達にはしてほしくない。押し付けかもしれないけどそう思っている。