2016年4月22日金曜日

生きていても死んでいても

父と母が結婚して10年目にできたのが私。たいそう待ち焦がれていた存在に出会った2人は子育てを誤った。(笑)

子育てに正解も不正解もないのかもしれないけれど、一般常識をベースで判断するなら不正解という表現になるだろう。

しかし唯一、揺るぎない愛情という救いがあった。唯一ではあるが最大の子育てポイント。(笑)他はほぼ全て不正解な両親だったが、それがあったおかげで大きな過ちを犯すことなくオトナになれたのだろう。

母とは小学生の頃に離れたけれど、高校を卒業してからは会うことも多く、プチ旅行したりもした。私の結婚式には別れた両親が並んで座った。号泣したのは極道親父で、そんな父にハンカチを渡したのは母だった。

母にたいしたことは出来なかったけど、れみすけを抱かせてやれたことが最大の親孝行だったと思うし、その幸せな姿をみていたおかげで母が亡くなった時も後悔や、してやればよかったと思うことは何もなかった。

20年以上にわたり病を患い、脳梗塞で歩行が困難になり言葉もほぼ話せなかった。そんな状態でも「れみちゃん」だけは嬉しそうに言えた。

最期は癌だったが、癌がみつかったのは本当に最後の最後。言葉が話せないから発見が遅れたのか、気づいていたけど伝えようとしなかったのか、今となってはわからない。

母の最期のメッセージは、集中治療室で意識がすでになくなっていた母、私、れみの3人だけの時のこと。

まだ保育所に通っていたれみには、ばぁばの意識がなくなり、このままいなくなってしまうということがよくわからず、そんな場面でわがままを言うことに苛立った私がれみを叱った。その瞬間、母親につながっている機械からアラーム音が鳴り響いた。血圧なのか心拍数なのか?急上昇した為に異常を知らせるアラームが鳴ったのだ。

私は瞬時に母に語りかけた。「大丈夫よ、怒ってないけん、わかったけん」。
あきらかにあれは"れみちゃんを怒るな"という母の最期の訴えだった。

亡くなる前の数日間は、なかなかそばについておられず、病院には出たり入ったりの繰り返しで、母に近い人間から電話で「それでも娘か!」と激しい口調で責められたが、傷つきもしなければ悲しさも感じなかった。母は私を咎めてはいないし、私は後悔がなかったから。

冷たい人間だと思われるかもしれないが私は母の命日すら覚えていない。だけどそれは憎んでもいなければ、寂しさもない、そして自分自身が母に対してやりのこしたこともない、残ったのは幼少期に注がれた深い愛情と、おそらくは死ぬまで我が子として私を想っていたであろう母の気持ち、長い闘病生活を終え、お疲れ様と安堵した私の気持ち。それ以上でもそれ以下でもない。

母は母の人生を終え、私は私の人生を進んでいる。命日を覚えていないから、母を忘れているというわけでもなく、日々の暮らしの中で、母が私を想う気持ちはこうだったろう、離れた時の気持ちはどうだったろう、母が幼い私に厳しくした理由はこう考えたからだろう、などと生きる中で私の感覚に存在する。それが私の母。

母の日は5月8日です。


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